2008年4月17日木曜日

ピンポン外交

卓球ニッポンの黄金期を築き、「ピンポン外交」の立役者としても活躍した故・荻村伊智朗。荻村を高校時代から育てた東京・吉祥寺の卓球場が昨年末、幕を閉じ、売却先が決まった。57年間、営みながら卓球好きを見守ってきた上原久枝さん(88)の思い出が詰まった卓球場は取り壊し後、住宅になる。

「武蔵野卓球場」は1950年9月に東京都武蔵野市にできた。夫、母との自宅を兼ねた卓球場の料金は1時間20円。まだ娯楽が少ない時代、すぐに人気を集めた。
 高校3年の荻村はまもなくやってきた。やせっぽち、色白、太い眉。母子家庭に育った荻村は「コッペパンをいつもポッケに入れ、ちぎっては食べていた」と上原さんは覚えている。上原さんの手料理をごちそうになり、深夜までラケットを振った。
 「相手がいない」と壁打ちをすれば1分120回のペースで打つ。「おばさん、持ってて」とラケットを固定させて命中させる。台の角に万年筆のキャップを置き、サーブで落とす練習は100本続けてできるまで続けた。
 強くなるためにまっしぐらに突き進む荻村の姿勢は、常連でつくるクラブの仲間と衝突した。一方で上原さんを「おばさん」と呼んで慕い、汗だくのユニホームを目につくように投げておくなど甘えた一面も。「わざと私を怒らせようとするの」と上原さんは笑う。
 54年、ロンドンでの世界選手権。荻村は初出場を決めたが、80万円も自己負担が必要と知り、あきらめかけた。「日本一になった伊智朗さんが行けなかったら私たちの恥じゃない」。上原さんはメンバーを説き伏せ、駅前で募金を始めた。目標額を達成し、仲間の支援を受けた荻村は世界一を勝ち取った。
 武蔵野卓球場は89年に近くに移り、翌年、40周年を迎えた。国際卓球連盟会長だった荻村は、40周年の記念誌にこんな詩を寄せた。
 天界からこの蒼(あお)い惑星の
 いちばんあたたかく緑なる点を探すと
 武蔵野卓球場がみつかるかもしれない
 「うれしかった。お礼なんて言われたことなかったから」と上原さん。この詩に感銘を受け、荻村の評伝「ピンポンさん」(講談社)を著したフリーライターの城島充さんは「人を寄せ付けないところがあった荻村さんが、上原さんにはほかの人と明らかに違うボールを投げていた」。
 一人暮らしの上原さんは年齢とともに経営を続けるのが厳しくなり、ここ数年は常連の団体に貸すだけだった。6月までに2階の住まいを引き払い、三鷹市の高齢者住宅に移る。スイスにある卓球の博物館に旅するのが夢だ。「後ろを振り返っても仕方ない。前を見ていきます」
 〈荻村伊智朗〉 54年、主将として出場したロンドンの世界選手権で男子シングルスと団体に優勝したのをはじめ、12の世界タイトルを獲得。引退後、71年の世界選手権の前年に訪中、米中国交正常化につながる「ピンポン外交」をおぜん立てした。87年に国際卓球連盟会長に就くと、韓国、北朝鮮と協議を重ね、91年の世界選手権で南北統一チーム「コリア」を実現。94年12月に62歳で亡くなった。(片山健志)

asahi.com

何でだろう。昭和の時代って羨ましく思えるのは。

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